心機一転を期して甲州の御坂峠にこもった「私」が、目の前にそびえる富士と毎日向き合いながら、見合いや人との出会いを通して少しずつ変わっていく話です。初めは風呂屋のペンキ画のようだと富士を嫌っていた「私」の目に、富士はさまざまな姿で映ります。太宰自身の御坂峠での滞在がもとになっています。
こんな人に
- 人生をやり直したいと思って、ひとりで旅に出たことがある人に
- 同じ景色が、気持ちしだいで違って見えた経験がある人に
- 自分の失敗を笑い話にしてしまう語り口が好きな人に
あらすじ(ネタバレなし)
昭和十三年の初秋、「私」は思いを新たにする覚悟で、かばん一つを提げて旅に出ます。向かった先は甲州の御坂峠です。峠の頂上の天下茶屋には、師の井伏鱒二が初夏から二階にこもって仕事をしていました。
茶屋に落ち着いた「私」は、毎日いやでも富士と真正面から向き合うことになります。ここから見た富士は昔から富士三景の一つに数えられていますが、あまりに注文どおりの景色で、「私」は恥ずかしくなるほどでした。井伏氏と登った三ツ峠では、濃い霧で何も見えません。茶店の老婆が富士の写真を掲げて、ここにこう見えるのだと懸命に説明してくれます。
その数日後、「私」は井伏氏に付き添われて甲府へ下ります。甲府に住むある娘さんとの見合いが待っていたのです。
主な登場人物
- 私
- 語り手の作家。小説の仕事を進めるため、御坂峠の茶屋に秋から冬まで滞在する。
- 井伏氏
- 「私」の師である作家・井伏鱒二。天下茶屋の二階で仕事をしている。
- 甲府の娘さん
- 「私」の見合いの相手。甲府の町はずれに住み、見合いの席には母も同席する。
- 茶店の娘さん
- 天下茶屋の十五歳の娘。「私」の原稿を番号順にそろえるのを楽しみにしている。
- 茶店のおかみさん
- 娘さんの母。六歳の男の子もいる。寒くなると「私」のために炬燵を買ってくる。
- 新田
- 麓の吉田の郵便局に勤める二十五歳の青年。「私」を訪ね、仲間の青年たちを連れてくる。
見どころ・おもしろいところ
場面ごとに変わる富士
物語には、絵に描かれた富士、東京のアパートの窓から見た富士、月夜に青く燃えるような富士など、何通りもの富士が出てきます。同じ山が「私」の気分しだいで別物に見えるので、富士の描かれ方を追うだけで「私」の心の動きがわかります。
バスの中の月見草
郵便を受け取りに出たバスの中で、「私」は母に似た老婆と隣り合わせます。乗客がみな富士を眺めるなか、老婆だけは反対側を見ていて、ふと路傍の花を指さします。富士と向き合って立つ小さな花の場面で、「私」の富士の見方が少し動きます。
自分を笑う語り口
どてら姿で登山したり、聖僧かと思った人物が犬に吠えられて逃げ出したりと、「私」の失敗やうぬぼれが笑い話として語られます。苦しい心境も、どこか滑稽に描かれているので、重くならずに読めます。
つまずきやすい所と、読み通すコツ
冒頭は数字の話から
作品は、絵の富士と実際の富士の頂角を比べる話から始まり、物語らしくない書き出しに戸惑うかもしれません。旅に出るのは数段落あとなので、最初は富士への悪口を聞くつもりで気楽に読み進めてください。
筋より挿話の連なり
大きな事件で話が進む小説ではなく、峠で出会った人や出来事の挿話が並んでいきます。どの挿話にも富士が顔を出すので、富士がどう見えたかに注目すると、まとまりがつかみやすくなります。
御坂峠と甲府での結婚前夜
1938年7月ごろ、太宰の周りの人々は井伏鱒二に、太宰の結婚相手の世話を頼みました。そこから甲府の石原美知子との縁談が始まります。9月13日、太宰は井伏の勧めで御坂峠の天下茶屋を訪れ、9月18日に井伏の付き添いで美知子と見合いをしました。
二人は11月に婚約し、太宰は甲府の下宿に移ります。翌1939年1月8日、杉並の井伏宅で結婚式を挙げました。この作品は同じ年の2月号と3月号の『文体』に載り、甲府時代に書いた「女生徒」などとともに短編集『女生徒』に収められています。
朗読と映画で味わう
天下茶屋への滞在は、もともと長編「火の鳥」を書くためのものでしたが、その長編は未完に終わりました。一方で、滞在中の出来事そのものが、この短編として残ることになりました。
1988年には岩波書店のカセット作品集で仲代達矢が朗読し、2000年には日下武史の朗読による新潮CDも出ています。2006年には『富嶽百景〜遙かなる場所〜』の題で映画化されました。
結末まで知りたい人へ
ネタバレを含むあらすじを開く
見合いの席で、「私」は長押に掛けられた富士の噴火口の写真を見上げ、振り返るときに娘さんをちらりと見て、結婚を決めます。その後、実家から結婚の援助がないとわかり、「私」はすべてを打ち明けに甲府を訪ねますが、娘さんの母は、愛情と仕事への熱意があればそれで結構だと答えます。茶店の娘さんに仕事が進まないことを叱られ、純粋な声援だと感じた「私」は、結婚式も先輩の家で挙げられることになります。
十一月に入り寒さが厳しくなると、「私」は山を下りることにします。その前日、東京から来た二人の娘に写真のシャッターを頼まれた「私」は、二人をレンズから外し、富士だけを大きく写して別れを告げます。翌朝、甲府の宿から見た富士は、山々の後ろから少し顔を出していました。
よくある疑問
- 『富嶽百景』はどんな話?
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御坂峠の茶屋に滞在した作家が、毎日富士と向き合いながら、見合いや人々との出会いを通して前を向いていく話です。小説とも随筆とも読める短編です。
- 実話がもとになっている?
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太宰は1938年9月、井伏鱒二の勧めで御坂峠の天下茶屋に滞在しました。その間の出来事を小説にしたもので、見合いの相手は、のちに太宰の妻となる石原美知子です。
- どのくらいの長さ?
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短編です。雑誌『文体』に2号にわたって掲載されました。
- 『富嶽百景』は無料で読める?
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著作権が切れているため、青空文庫で無料で読めます。公開されているのは新字旧仮名の版です。
