佳子は、毎朝、夫の登庁を見送って了うと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館の方の、夫と共用の書斎へ、とじ籠るのが例になっていた。
人気の女性作家のもとに届いた分厚い手紙は、ある椅子職人の罪の告白でした。醜い容貌に悩む男が、自分で作った大きな肘掛け椅子の中に身を潜めて暮らすという奇妙な体験が、手紙の文面だけで語られていきます。乱歩の初期の怪奇小説の代表作です。
こんな人に
- ぞっとする話を、品よく短く味わいたい人に
- 手紙や告白の形で語られる物語が好きな人に
- 江戸川乱歩を一作だけ試してみたい人に
あらすじ(ネタバレなし)
佳子は外務省書記官の妻で、夫をしのぐほど名の知られた美しい女性作家です。毎朝、夫を役所に送り出すと書斎にこもり、見知らぬ読者からの手紙に目を通してから仕事にかかるのが日課でした。
ある朝、原稿のように分厚い一通が届きます。読み始めると、それは差出人の「私」が自分の犯した罪を打ち明ける手紙でした。「私」は椅子づくりを専門とする家具職人です。腕は認められていましたが、醜い容貌のために人にさげすまれ、貧しさから、そのみじめさを紛らわすすべもありませんでした。
あるとき「私」は、外国人向けのホテルに納める大きな肘掛け椅子を作るうちに、ふとした出来心から、人が一人入れるほどの空洞を椅子の中にこしらえます。そして水と食べ物を持って、自分がその中に入り込んだのです。椅子ごとホテルに運ばれた「私」の、人に知られない奇妙な暮らしが始まります。
主な登場人物
- 佳子
- 外務省書記官を夫に持つ女性作家。毎朝、読者からの手紙に目を通している。
- 私
- 手紙の書き手で、椅子づくりの職人。醜い容貌と貧しさに苦しんできた。
- 佳子の夫
- 外務省の書記官。妻の名声の陰で影が薄くなっている。
見どころ・おもしろいところ
ほとんどが一通の手紙
物語の大部分は、佳子が読む手紙の文面そのものです。読者は佳子と同じ立場で手紙を読み進めることになるので、彼女が感じる不安や気味の悪さを、そのまま一緒に味わうことになります。
椅子の中から感じる世界
椅子の中の「私」には、外の様子が見えません。座る人の重みや体温、声や物音だけを頼りに相手を知ろうとします。見えないまま感じ取る世界の描写が、この作品の怖さと奇妙な生々しさを生んでいます。
孤独な男の告白
「私」の行いは異様ですが、手紙には、醜さゆえに人に相手にされなかった男の劣等感と孤独が綿々と綴られています。怖さだけでなく、どこか哀れさも感じさせるところが、長く読まれてきた理由の一つです。
つまずきやすい所と、読み通すコツ
古い言葉づかいに慣れる
「閨秀作家」は女性作家、「了う」は「しまう」のことです。大正時代の表記や言い回しが出てきますが、意味は前後からほぼ推測できるので、辞書を引かずにそのまま読み進めて大丈夫です。
途中で区切らずに読む
手紙の告白は改まった口調で長く続き、少し回りくどく感じるかもしれません。短い作品なので、最後の数行まで一気に読むのがいちばん効果的です。
行き詰まりから生まれた一作
1925年は、乱歩が専業作家として歩み始めた年でした。本格探偵小説を志していた乱歩ですが、早くも種切れで行き詰まり、自信のないまま書いた『屋根裏の散歩者』などの怪奇的な作品が、思いがけず読者に好評を博していました。
そんなとき、大衆誌『苦楽』の編集者川口松太郎から依頼を受け、『屋根裏の散歩者』のような作品をと求められます。アイデアの蓄えもないなかで椅子を眺めて思いついたのが本作で、仮の題は「椅子になった男の話」でした。
読者投票で1位に
『苦楽』9月号に掲載されると好評で、ちょうどその号で行われた掲載作品の読者投票で1位になったといいます。この評価を受けて、乱歩は本格探偵小説から、怪奇や官能を描く作品へと軸足を移していきました。
翌1926年1月に短編集『屋根裏の散歩者』に収められ、書籍になりました。映画は1997年と2007年に作られ、テレビドラマは1970年から何度も作られ、満島ひかりが佳子を演じた版もあります。2016年には朗読劇の舞台にもなり、漫画化もされています。
結末まで知りたい人へ
ネタバレを含むあらすじを開く
ホテルで「私」は、夜になると椅子から這い出して盗みを働き、昼は椅子の中で、座る人の感触を革ごしに味わうことにのめり込みます。やがて日本人の女性に座られたいと願うようになったころ、ホテルの持ち主が変わり、椅子は古道具屋に売られて、ある日本人の官吏に買われます。その書斎の椅子にいつも座るのは、若く美しい夫人でした。夫人に一方的な恋心を募らせた「私」は、ついに椅子を出て手紙を書いたのであり、その夫人とは佳子のことだったのです。
恐ろしくなって書斎を離れた佳子のもとに、同じ筆跡の二通目の手紙が届きます。そこには、先に送ったのは自分の創作で、題は「人間椅子」にしたいので批評してほしいと書かれていました。
よくある疑問
- 『人間椅子』はどんな話?
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女性作家に届いた一通の手紙で、椅子の中に潜んで暮らした職人が自分の体験を告白する話です。手紙の文面を通して、奇妙な出来事が語られます。
- 乱歩はどうやってこの話を思いついた?
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乱歩は籐椅子を眺めながら思案するうちに、椅子の形が人のしゃがんだ姿に似ていると気づき、大きな肘掛け椅子なら人が入れると思いついたといいます。実際に入れるか気になり、横溝正史と神戸の家具屋で確かめたそうです。
- どのくらいの長さ?
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短編小説です。物語の大部分を一通の手紙が占める、手紙形式の作品です。
- 『人間椅子』は無料で読める?
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著作権が切れているため、青空文庫で無料で読めます。新字新仮名の版が公開されています。
出典
あらすじと解説は、上の資料と作品の本文をもとに編集部が書いています。表紙の絵はこのサイトで作った装丁で、実際の本の表紙ではありません。
