それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。
東京・D坂の古本屋で、店の女房が殺されているのが見つかります。出入り口はすべて人目にさらされていたのに、犯人の姿はどこにもありません。のちの名探偵明智小五郎が初めて登場する短編で、乱歩が日本の家でも密室は書けると示そうとした本格探偵小説です。
こんな人に
- 推理小説の古典を、短い一編から味わってみたい人に
- 名探偵がどんな人物として生まれたのかを知りたい人に
- 大正時代の東京の下町の空気に触れてみたい人に
あらすじ(ネタバレなし)
九月初旬の蒸し暑い晩、学校を出たばかりで職のない「私」は、D坂の大通りにある行きつけのカフェ白梅軒で、冷しコーヒーをすすっていました。向かいの古本屋の女房は、カフェで知り合った変わり者の青年・明智小五郎の幼なじみで、「私」はなんとなく店先を眺めていたのです。
ところが、その晩は店番の姿が見えず、店と奥の間を仕切る障子の格子が閉まったきり、誰も出てきません。通りかかった明智もカフェに入ってきて、二人は様子を見に古本屋へ向かいます。電灯をつけると、奥の部屋で女房が絞め殺されていました。
警察の調べで、主人には外出していたことの証明がありました。しかし店の表は「私」たちが見ており、裏口のある路地にも人の出入りはなかったといいます。おまけに、障子越しに男の姿を見たという二人の学生は、男の着物の色について正反対の証言をするのでした。
主な登場人物
- 私
- 語り手。学校を出たばかりで職がなく、探偵小説好き。カフェ白梅軒の常連。
- 明智小五郎
- 煙草屋の二階に下宿する二十代の書生。探偵小説好きの変わり者で、古本屋の女房の幼なじみ。
- 古本屋の女房
- 白梅軒の向かいの古本屋の妻。殺されているのが見つかる。
- 古本屋の主人
- 被害者の夫。カフェの女給たちの間では、妻をいじめているのではと噂されていた。
- 小林刑事
- 名探偵として評判の高い刑事。現場の捜査を取り仕切る。
- 二人の学生
- 古本屋の裏の長屋に間借りする工業学校の生徒。障子越しに男の姿を目撃する。
見どころ・おもしろいところ
名探偵の意外な姿
初登場の明智は、のちの紳士然とした探偵とはまるで違い、本に埋もれた下宿に住む無職の青年です。講釈師の神田伯龍をモデルにした風変わりな人物像で、話しぶりや仕草の癖を追うだけでも楽しめます。
日本家屋の密室
当時、紙と木でできた日本の家では、西洋のような密室ものは書けないと言われていました。乱歩は障子や長屋の造りを生かし、日本の町なかで成り立つ密室をこしらえています。現場の間取りを思い浮かべながら読むと、謎の手ごたえが増します。
食い違う目撃証言
障子の格子越しに男を見た二人の学生は、一人は黒い着物、もう一人は白い着物だったと言い張ります。どちらも嘘をついているようには見えないこの食い違いをどう読み解くかが、後半の推理の焦点になります。
つまずきやすい所と、読み通すコツ
前半と後半で語り方が変わる
作品は「事実」と題された上と、「推理」と題された下の二部に分かれています。上で事件の状況が細かく語られ、下はほとんどが会話で進む推理です。上の細部を覚えておくと、下の議論についていきやすくなります。
D坂は団子坂のこと
D坂とは、東京・千駄木にある団子坂のことで、作中では菊人形の名所だった所として紹介されています。乱歩自身がかつてこの坂で古本屋を営んでいたことを知っておくと、町の描写がいっそう生き生きと感じられます。
団子坂の古本屋と密室への挑戦
乱歩は作家になる前の大正8年、団子坂で弟たちと古本屋を営み、居候の友人と探偵小説の筋を練っていました。作中に古本屋や蕎麦屋が出てくるのは、こうした経験とつながっています。本作は『新青年』の1925年1月増刊号に載り、編集部は冒頭で乱歩の力作として大きく紹介しました。
乱歩は、紙と木の日本家屋では密室ものは書けないという説に対し、日本の建物でも密室を構成できる一例を示したかったと述べています。明智のモデルは、乱歩が聞いて感心した講釈師の神田伯龍でした。
専業作家への第一歩
本作と翌月の『心理試験』の出来を高く評価した編集者の森下雨村は、『新青年』で6か月連続の短編掲載を企画しました。『心理試験』が好評だったこともあり、当時31歳の乱歩は専業作家になる決意を固めます。
乱歩自身も本作を、自分の短編の代表的なものに数えています。明智小五郎シリーズの代表作として何度も映像化され、1998年には実相寺昭雄監督が映画化しました。テレビドラマでは、明智の誕生を描いたものや、乱歩の短編集シリーズの一編としても作られています。
結末まで知りたい人へ
ネタバレを含むあらすじを開く
事件から十日ほどたったある日、「私」は明智の下宿を訪ね、自分の推理を語ります。犯人は白と黒の太い棒縞の着物を着ていて、格子の見え方で学生には一色ずつしか見えなかったのだ、あの晩そんな浴衣を着ていたのは明智であり、電灯のスイッチにも明智の指紋しかなかった、と。明智は大笑いし、着物の色の違いはとっさの記憶違いにすぎないと退けます。
明智は、古本屋の女房の体に生傷があり、同じ長屋の蕎麦屋の女房にも同じような傷があることを突き止めていました。蕎麦屋の主人は人を責めて喜ぶ性癖を、古本屋の女房は責められて喜ぶ性癖を持ち、二人は互いの性癖を知ってひそかに逢っていたのです。事件はその行為が行き過ぎた末に起きたものでした。そこへ、蕎麦屋の主人が自首したという新聞記事が届きます。
よくある疑問
- D坂とはどこ?
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東京都文京区千駄木の団子坂のことです。乱歩は作家になる前、弟たちとこの坂で実際に古本屋を営んでいました。
- 明智小五郎の初登場作品?
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はい、明智小五郎が初めて登場する作品です。乱歩はこの作品限りの人物にするつもりだったと語っていますが、続く『心理試験』『黒手組』にも明智が登場し、代表的な探偵役になりました。
- どのくらいの長さ?
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短編小説で、「事実」と「推理」の上下二部で構成されています。
- 『D坂の殺人事件』は無料で読める?
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著作権が切れているため、青空文庫で無料で読めます。新字新仮名の版が公開されています。
出典
あらすじと解説は、上の資料と作品の本文をもとに編集部が書いています。表紙の絵はこのサイトで作った装丁で、実際の本の表紙ではありません。
