芥川龍之介
1892年〜1927年・日本
大正時代を代表する短編小説の書き手です。『今昔物語集』などの古い説話に題材をとり、人間のエゴイズムを簡潔で理知的な文章で描き出しました。夏目漱石に認められて文壇に出ますが、35歳で自ら命を絶ちます。その名は、菊池寛が設けた新人文学賞「芥川賞」に残っています。
最初の一冊
短い時間で読み切れるうえ、古い説話を素材に人の心の動きを描く、芥川の初期の持ち味がよく表れた一編だからです。
漱石に認められた短い生涯
東京の京橋で、牛乳製造販売業を営む新原家の長男として生まれました。生後まもなく母が心を病んだため、母の実家の芥川家に預けられ、のちに伯父の養子となります。芥川家は代々徳川家に仕えた旧家で、江戸の文人趣味が残る家でした。
東京帝国大学の英文科に進み、在学中に菊池寛や久米正雄らと同人誌『新思潮』を出します。1916年、創刊号に載せた『鼻』が夏目漱石に絶賛され、作家としての道が開けました。海軍機関学校で英語を教えたのち、1919年に大阪毎日新聞社に入社して創作に専念します。1921年の中国視察のあとは心身が衰え、1927年7月24日、「ぼんやりした不安」を書き残して服毒自殺しました。命日は代表作にちなんで「河童忌」と呼ばれています。
説話の翻案から告白的な作品へ
初期には、説話文学を典拠にした『羅生門』『鼻』『芋粥』などの歴史物や、キリシタンを題材にした作品で知られました。英文学を学んだ芥川の文章は、論理的に整理された簡潔・平明な筆致が特徴とされます。中期には『地獄変』のように芸術至上主義的な面が前に出た作品を書き、『赤い鳥』に発表した『蜘蛛の糸』など子ども向けの作品も残しています。
短編の名手だった一方、長編は未完に終わりました。晩年は健康の衰えとともに作風が懐疑的になり、主人公を「僕」とする私小説的な作品や、『河童』『歯車』のような晩年の作品が生まれます。谷崎潤一郎と「物語の面白さ」をめぐって論争したことでも知られています。
