夏目漱石
1867年〜1916年・日本
明治の終わりから大正の初めにかけて活躍した小説家で、英文学者でもあります。37歳で『吾輩は猫である』を書いて作家になり、亡くなるまでのわずか十数年で数々の長編を残しました。作品を通じて、いまに通じる書き言葉の確立に大きく寄与したとされています。
最初の一冊
漱石の作品の中では平易で、テンポのいい一人称の語りで一気に読める中編だからです。笑いながら読めるうえ、漱石の文章の歯切れのよさもよくわかります。
英語教師から新聞小説家へ
本名は夏目金之助で、江戸の牛込に名主の家の末っ子として生まれました。生後まもなく養子に出され、9歳で生家に戻るなど、波乱の多い幼少期を送っています。帝国大学の英文科で学び、学生時代に出会った正岡子規とは、子規が亡くなるまで親しく交わりました。
大学を出たあとは松山の中学校や熊本の第五高等学校で英語を教え、1900年から文部省の留学生としてロンドンで学びます。留学中には神経衰弱に悩まされ、帰国後は東京帝国大学で英文学を講じました。高浜虚子に勧められて書いた『吾輩は猫である』が評判となり、1907年には教職をすべて辞めて朝日新聞社に入社し、職業作家の道を選びます。その後は胃潰瘍に苦しみながら書き続け、1916年、『明暗』を連載中に49歳で亡くなりました。
ユーモアから人の心の奥へ
初期の『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』は、ユーモアと風刺に満ちた作品です。その後、新聞小説として『三四郎』『それから』『門』の前期三部作を書きました。
1910年に修善寺で大量に吐血し、生死の境をさまよった「修善寺の大患」のあとは、作品の主題がしだいに人間のエゴイズムへと向かいます。『彼岸過迄』『行人』『こころ』の後期三部作では、人の心の奥にある孤独や罪の意識が描かれました。家に集まった小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平、寺田寅彦ら多くの門下生を育てたことでも知られています。
