織田作之助

織田作之助

1913年〜1947年・日本

どんな作家?

大阪の路地裏に生まれ、大阪の庶民の暮らしを書き続けた小説家です。戦後は太宰治や坂口安吾らとともに無頼派、新戯作派と呼ばれ、「織田作」の愛称で親しまれました。結核のため33歳で亡くなるまでの短い間に、数多くの短編を残しています。

最初の一冊

夫婦善哉織田作之助夫婦善哉織田作之助・短編

織田が作家としての地位を確立した作品で、大阪の食べ物や地名、細かな金額をちりばめた織田らしい書き方が最もよく表れているからです。

路地の仕出屋から人気作家へ

1913年、大阪・生玉前町の路地裏で、仕出屋の長男として生まれました。のちに家業は一銭天婦羅屋に変わっています。路地裏の長屋の子が第三高等学校へ進むのは極めてまれで、母校の小学校から見送りの申し出があったという逸話も残っています。

三高では劇作家を志し、仲間と同人誌『海風』を創刊しました。しかし喀血を機に勉学への意欲をなくし、出席不足で退学します。1938年、スタンダールの影響で小説家へ転じ、「俗臭」が芥川賞候補に、続く「夫婦善哉」が改造社の文芸推薦作品になって、本格的な作家生活に入りました。

1944年に妻の一枝を癌で亡くし、その後も写真と遺髪を肌身離さず持ち歩いたといいます。戦後は「世相」などで人気を集めましたが、1946年12月に結核で大量に喀血し、翌年1月に33歳で亡くなりました。新聞連載中だった『土曜夫人』は未完に終わっています。

大阪と西鶴に根ざす書き方

織田は短編を得意とし、作品の多くで大阪の庶民、とくに放浪する人々の暮らしを描きました。井原西鶴に傾倒し、西鶴論を書いたり、西鶴の作品を現代語に訳したりもしています。

地名や職業の名、具体的な金額をたくさん書き込むのも、西鶴から受け継いだ織田作品の特徴です。将棋の坂田三吉を題材にした作品もあり、織田の死後に北條秀司が坂田を主人公にした戯曲『王将』を発表して、坂田の名が広く知られるようになりました。1983年からは、織田の名を冠した織田作之助賞が設けられています。

織田作之助の作品