中勘助
1885年〜1965年・日本
幼い日々を描いた『銀の匙』が、恩師の夏目漱石の推挙で新聞に連載され、文壇に認められた小説家・詩人・随筆家です。漱石門下のひとりに数えられながら、文壇の流れとは距離を置いて書き続け、「孤高の作家」と評されました。
最初の一冊
作家として認められるきっかけになった作品で、病弱な子ども時代を伯母に育てられた中自身の生い立ちが色濃く反映されているからです。
家から離れて書いた半生
東京・神田の旧今尾藩邸で生まれ、まもなく小石川へ移りました。母の産後の具合が悪かったため、体が弱く神経過敏だった勘助は、同居していた伯母に育てられています。第一高等学校と東京帝国大学で夏目漱石の講義を受けました。同級の安倍能成や岩波茂雄らとは、卒業後も交流が続いています。
大学卒業の半年前、家長の兄が脳溢血で倒れ、一家を支える役目が勘助に求められます。しかし勘助は実家に戻らず、野尻湖の弁天島や比叡山など各地を転々としながら『銀の匙』を書きました。新聞連載で注目されたあとも、6年近くほとんど作品を発表しない時期が続いています。
1921年に『提婆達多』と『銀の匙』の単行本を出して活動を再開し、昭和に入ると詩集を次々に刊行して詩人としても歩み始めました。1965年、角川書店版の全集の完結と長年の業績により朝日文化賞を受け、同じ年に79歳で亡くなっています。
日記と詩に表れる静かな目
中は小説のほかに、『沼のほとり』『しづかな流』『街路樹』など、日々の日記をもとにした随筆を多く残しました。我孫子や平塚、疎開先の静岡県服織村など、暮らした土地での日々がそのまま作品になっています。
1935年の詩集『琅玕』を皮切りに、晩年まで多くの詩集を出しました。一方で、1922年に発表した「犬」は性欲の描写を問題視され、掲載誌の『思想』が発禁処分を受けています。中は晩年、このとき周囲から受けた非難の大きさを振り返っています。
